私の家業承継――“父の会社”で育った19歳の決断と、その先に見えた未来

はじめまして。一般社団法人家業承継協会で“応援団長”を務めている竹口晋平です。
このコラムでは、僕が実際に体験してきた家業承継のリアルについてお話しします。
「家業を継ぐ」と聞くと、多くの方は「親から子へ自然にバトンタッチすればいい」と思われるかもしれません。
しかし、私の家ではまったくそうはいきませんでした。父が創った会社――というより、半ば混乱状態の縫製工場で育ち、高校へは行かずに会社へ入り、19歳で父と衝突し、20歳で独立。
そこからまた“家業”を買い取るかたちになり……と、波瀾万丈な道のりを歩むことになりました。

いま私は、「日本家業承継協会」を立ち上げ、後継者や創業者のサポートに関わっています。
自分自身が家業承継の現場で苦しんだり、悩んだりした体験を踏まえて、「世の中には同じように悩む人がこんなにいるのか!」と知ったのが大きなきっかけです。
少し長いですが、僕のストーリーを語ることで、読んでくださる方――特に家業を継ぐ立場の方や、創業者として“誰にバトンを渡そうか”と悩む方に、一つでもヒントがあれば嬉しいです。

目次

第1章:家業とは呼べど“昭和型”の父と母

父は遊びほうけ、母は1ヶ月400時間労働

僕が育った家庭は、いわゆる「親子で会社をやっている家」でした。
しかし、端的に言うとその会社は相当に“グレー”で、しかも父はかなり独特な価値観をもつ人。縫製業の会社を複数持ってはいたものの、父自身はあまり働かない。母は毎月400時間も働いているのに、父は100時間程度。
さらに、父には外に愛人までいて、まさに“昭和型”とも言える暮らしぶりでした。

一方の母は、「子どものため」と必死に働き続けていたのですが、経営状態は決して良好とは言えません。売上は年間5,000万円ほどで、家族としての世帯年収も300万円程度。しかも、製品タグの付け替えなど、モラル的にグレーなやり方が横行していて、父は“自分が儲かるならOK”という独自理論を振りかざしていました。

5歳から「家を継ぐか、東大に行くか」の二択

幼少期から、父は僕に「勉強なんか時間の無駄。もしやるならトップの東大を目指すか、そうでなければうちの会社を継げ」という極端な二択を突きつけてきました。
「サラリーマンなんて論外」――まるでそれが当たり前のように言われ続ける日々。子ども心には“親父の言うことは絶対”と思いつつも、なんだか変な教育だなと感じていたのを覚えています。
それでも父は家業(と呼べるのか怪しい)を子どもに継がせたいと言いながらも、経営そのものを健全化する意思はあまりなかった。母が400時間働いても手取りが少なく、パートさんの給料が遅配しても知らん顔。そんな状況で、15歳の僕が「すみません、給料遅れます」と謝りに行く羽目になり、逆に野菜をもらって帰ってくる――という、少々異様な光景が続いていたわけです。

第2章:15歳で会社に入り、“何もかも見よう見まね”の日々

高校へ行かず、父の縫製工場で働く

普通なら中学を出れば高校進学ですが、僕の場合は素行の悪さと、父からの「学校なんか行くな」というプレッシャーもあって、15歳で父の会社に入社することに。
とはいえ、そこに“教育システム”なんてものはなく、パートのおばちゃんたち十数名と一緒に、ミシンや裁断機、怪しいタグ付け替え作業をただこなす日々。「文句言うヒマあったら稼げ」と父に言われながら、指をミシンで切り、裁断機で痛めつつ、とにかく現場を必死に回していました。

15歳で“経理部長”?――税務署通いで独学した決算書

それだけならまだしも、会社を回すには数字が欠かせない。「父や母に聞いても全然教えてくれへん。しゃあない、自分で学ぼう」と思い立ち、税務署に足しげく通い、独学で決算書を作成するようになったのが15歳。
当時、Excelのようなソフトを使い、複式簿記の概念もよくわからないまま手探りで経理データを整えました。パートさんの給料が遅れたら僕が謝りに行く。下手をすると「野菜もらって帰る」という謎の展開。
父は「お前が決算書作れるんなら助かるやん」と言うだけ。母は実務に追われ、誰も手取り足取り教えてくれない。でも、だからこそ「自分でやるしかない」と腹をくくれたのかもしれません。

第3章:19歳で父と大喧嘩、20歳で独立

父の言行不一致に嫌気――外の世界を目指す

16歳から18歳も現場と経理を兼任したものの、会社の状況は一向に良くならず、父の「日本製にこだわる」云々も実際はいい加減。
「父は口先ばっかりで、やってることがめちゃくちゃや」と気づいたときには、もう辛抱も限界でした。19歳で父と大喧嘩になり、「そんなに言うなら自分でやれ」と言われたのが、ある意味“決定打”。
「よし、やったる」と20歳で独立を決め、10日ほどでアパレル小売の店を立ち上げ、海外仕入れにも飛び始めました。その結果、なんと3ヶ月目には月100万円もの利益(手残り)を達成するほど順調。
父の会社で月3万円程度の給料だった自分が、わずか数ヶ月でその何十倍も稼げるようになった。「こんなにも違うんや」と驚きつつ、僕の中で“父の会社にしがみついていたら、一生成長できへんかったな”という確信を得た瞬間でもありました。

第4章:結局は“家業”を買い取り、母を雇う展開に

母の存在が気がかりで、父の会社を200万円で購入

独立したあとは順調でしたが、一方で鳥取の工場で働き続ける母の姿が頭から離れませんでした。
“父の会社は相変わらずメチャクチャや。母が報われへん”――この思いから、最終的に父の会社を「200万円で買い取る」ことにしました。実質的には負債もあって「救済」に近いけど、僕の事業側に縫製工程を回せるメリットがあったし、母を雇用する形を取れば少しでも楽にしてやれると考えたんです。

「友好的M&A」みたいに言えば聞こえはいいですが、そこには父の放漫さや母の疲弊、いろんなゴタゴタがありました。
それでも僕は、この決断をしたことで自分の小売事業をさらに伸ばすことができ、最終的には25店舗・従業員120名、年商10億円超へ。結局、父の会社(という家業)は、僕が買い取ることで幕を下ろし、母は新しい環境で働くようになりました。

僕の経営していた店舗

第5章:父との“アワビ勝負”で感じた、ほんの少しの和解

独立後、僕の会社が成長して従業員も増えたある日、「みんなで海辺でバーベキューをやろう」という話が持ち上がりました。すると従業員がこっそりサプライズで「せっかくやし、社長のお父さんも呼んでみましょうよ」と企画してくれたんです。父は昔から「オレ、海潜ったらアワビなんぼでも獲れるんや」と豪語するタイプで、子どもの頃に何度か無理やり海に連れて行かれては「ほれ潜れ!」と怒鳴られた記憶があります。

当日、父は思いがけない呼び出しに大喜びしながらやって来て、2時間ほど海に潜りっぱなし。かごいっぱいのアワビを獲って従業員に「さすがや!」と拍手喝采を受けていました。一方の僕は、「このままやと父がひたすらカッコつけてるだけやんか」と、妙に対抗心を燃やしてしまったんです。とはいえ、僕には潜る勇気も技術もなく、どうにも勝負にならない。

そこでこっそり車でアワビを買いに行ったわけです。大きく立派なアワビを仕入れて、これなら父にも負けへんやろ!と意気揚々で戻ったら、あっさり父にバレて「お前、買うてきただけやろ!」とツッコミを入れられ、従業員も大笑い。正直、完敗でした。

それでも父は「なんや、お前も負けず嫌いやな。ええやんか」と上機嫌で、僕のことを妙に褒めそやしていたらしく、若いころ散々振り回された僕としても、なぜか憎めない気持ちが湧いてきたんですよね。親子関係が急にすべて丸く収まったわけじゃありませんが、一緒にアワビを焼きながら従業員と笑い合えたあの光景は、僕にとって父との“和解に近いひととき”でした。

“カッコつけ合い”という他愛ないやり方とはいえ、笑いが混ざると意外と重苦しさがほどけるもの。家業承継をめぐるあらゆる衝突も、こんなふうに少しずつ雪解けが進むのかもしれない――そんなことを思ったエピソードです。

第6章:日本家業承継協会を立ち上げた理由

親子間対話の不足を何とかしたい

「事業承継」と聞くと、多くの場合がM&Aや大手コンサルの入るイメージを抱きがちです。そこでは数字や法務・税務が優先され、親と子がじっくり腹を割る前に結論を出してしまうことが少なくありません。
けど、家業って“親子だけ”の問題じゃなく、従業員や地域との関係、家族の歴史など、ほかにはない要素が入り組んでます。そこをないがしろにすると、あとから「実は継ぎたかったのに親が売ってしまった」「子どもがやる気なかったはずなのに急に騒ぎ出す」などのトラブルが起こりやすい。

僕自身、父の会社で苦労し、独立し、最終的に母を雇う形で買い取った経験から、やっぱり親子がどこまで本音をぶつけ合ってるかが鍵だと感じています。
なので、協会では後継者がコミュニティで悩みを共有し、専門家も含めていろんな選択肢を検討できる場を作りたい。親のことで苦しんでいるなら苦しんでるで、いっそ一度派手に衝突してみてもいい。
それを避けて「仲良し風」にしていても、事業の根本課題は解決しません。僕はそういう“リアルな対話”を後押しする仕組みを、家業承継協会で整えたいと思っています。

第7章:創業者や後継者へのメッセージ

親(創業者)へ:早めにバトンを渡す勇気を

60代・70代でも元気で経営を続けられる方が多いのは事実です。でも、後継者が思いのほか早く力を発揮できるケースも少なくありません。僕自身、父と喧嘩した後、わずか3ヶ月で月100万円の利益を出せました。
すべてがそううまくいくわけではないにしても、体験を与えてみないと後継者の本当の力はわからない。むしろ、若いエネルギーを活かせるか活かせないかが会社の将来を決めるかもしれません。
引退後の人生はまだ続きます。もしバトンを渡せば、創業者自身も別の事業や地域活動に挑戦する余力が生まれるかもしれないのです。

後継者へ:逃げる前に“本音”でぶつかれ

「親とは価値観が合わない」「会社のやり方が古すぎる」といった理由で先に諦める方もいます。でも僕は、まず衝突してみることをすすめたい。
親の意見が全否定に終わってもいいじゃないですか。何も言わずにうやむやにしていては、一生“もしあのとき言っていれば”の後悔が残る可能性がある。実際、僕が父に対して散々言いたい放題ぶつけたからこそ、独立もできたし、“じゃあやってみろ”という流れが生まれたのだと思っています。

第8章:家業承継は「数字と文化の融合」――協会を通じた新たな展望

数字に偏りすぎず、家族の情に振り回されすぎず

事業承継というと、どうしても“数字面”――M&A仲介や相続税対策などが注目されがちです。でもそれだけでは、家業特有の文化や歴史を壊すおそれもある。
かといって家族の情ばかりを最優先していては、経営がうまくいかず従業員が疲弊するかもしれない。
だからこそ、「日本家業承継協会」では、後継者を中心にコミュニティを作り、親子間のコミュニケーションを促進しながらも、必要なときには専門家から数字面のサポートを得られる――そんな“数字と文化のバランス”を取れる仕組みを用意しています。

第9章:私の家業承継を振り返って

親を超える、あるいは親の代をリセットする

結果として、僕は父の会社をM&Aの形で買い取って母を雇い、最終的には自分の小売事業を大きく成功させる道を選びました。
周囲からは「ずいぶん派手に成功したね」と言われることもありますが、その背景には相当の衝突や悩みがあって、自分自身も傷ついたし、父との仲が一時期めちゃくちゃ悪くなった事実があります。
それでも後から振り返れば、「父の会社で15歳から働いたのがあったからこそ、今の自分がある」「もしあそこで何も行動しなかったら、一生うじうじしていただけかも」という気持ちもあるんです。
うちの父の場合、典型的な昭和型社長で、ものすごくアクの強い人でした。そこに愛人だのモラル崩壊だの、すごいエピソードが山積み。それでも僕は最終的に彼を尊敬できる部分があると思えましたし、一緒に笑える日が来た。
家業承継って、数字だけでも家族だけでも語りきれない、そういう人間ドラマなんだと改めて感じます。

第10章:後継者・創業者へのメッセージ

後継者へ:「まず衝突しよう」「外へ学びに出よう」

  • 「親の価値観に違和感があるなら、とりあえずぶつかってみる」
    恐れて何も言わないと、一生モヤモヤを抱えるかもしれません。
  • 「外部の経営者や専門家から学ぶ」
    僕は10代のうちにたくさんの社長に会い、生意気な発言をしては成長させてもらいました。自分の家業だけを世界のすべてと思わない方がいい。
  • 「数字を理解すれば親を説得しやすい」
    決算書や財務分析を独学でも身につけておくと、親や親族に論理で話せるようになり、意思決定の精度が上がります。

親(創業者)へ:「早めにバトンを渡す」「自分の人生も楽しむ」

  • 「後継者は思いがけないスピードで伸びる」
    やらせてみないとわからない。成功・失敗も含めて、若いエネルギーを使わせる場を早めに与えてあげてほしい。
  • 「会社を継いだ後の人生はまだ続く」
    セカンドキャリアや地域貢献、新事業――親としての役割を卒業したら、まだまだやれることがあるかもしれません。
  • 「コミュニケーションから逃げない」
    子どもが何を考えているか、お互い腹を割って話す時間をつくる。そこから、家業の本質が見えてくるでしょう。

終わりに:家業を“わがこと”として次の世代へ

僕自身の家業承継物語は、父との壮絶な衝突と、そこから生まれた独立やM&A買い取りが軸になっています。一見「ひどい父親」に振り回されているようでも、実はその経験があったからこそ自分を成長させ、さらには父とも最後には笑い合える関係を築くに至った――そんな“光と影”が混ざったストーリーです。
家業承継協会を立ち上げたのは、「数字やM&Aだけにとらわれず、家族のリアルな対話をもっと増やしたい」という思いから。親子の間に暗黙の圧力があったり、見えない期待に潰されそうな後継者があまりに多いと感じています。実際には、家業の魅力を見つけ出すチャンスもたくさんあるはずなんです。

家業承継はゴールではなく、“未来を切り拓くスタート”。
親が思う以上に後継者は伸びるし、後継者が思う以上に親の言葉には学ぶべき部分もあるかもしれません。両者が本音をぶつけ合い、必要なら外部の専門家やコミュニティの力を借りて、うまく落としどころを見つければ――会社も家族も、ひとつ上の段階へ行けるのではないでしょうか。

ぜひ、この記事を読んで「うちも動かないと」と思った方は、小さな一歩でも踏み出してみてください。親と話す、後継者仲間に相談する、専門家を探す――どれでも構いません。
行動することでしか家業承継は進まないし、意外と“なんや、やれるやん”と笑い合える瞬間が訪れるかもしれません。少なくとも僕は、海のアワビをめぐる父とのやりとりを通じて、そんな救いを感じることができました。だからこそ言いたい。「もっと早くぶつかっておけばよかった」と。

今後も、家業承継協会の取り組みを通じて、親子や後継者同士が本音で語り合い、それぞれが納得のいく未来を創れるよう、お手伝いしていきたいと思います。家業を「わがこと」として捉え直し、次の時代へつなぐ――あなたの物語も、そこから始まるはずです。

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